私の国、中国のゲーム文化をたどる(前編)

私の国、中国のゲーム文化をたどる(前編)

私の国、中国のゲーム事情を伝える序章として、まずは過去に起きたことについて言及したい。
あなたの記憶の奥にある、子供のころ大好きだったゲームシリーズはなんだろうか。

テレビゲームの歴史は、1960年代前後の『Tennis for 2』『Space War』などの専用デバイスで遊ぶものから始まるとされている。しかし世界的なブームとなり、一般家庭用に受け入れらるようになったのは、やはり1977年のAtari 2600、そして1983年のファミリーコンピューターが契機だろう。

90年代にはSEGA、SONYなどの企業が参入し、大量の新ハードウェアが登場した。そう、チャンス溢れる時代となったのだ。今なお続く誉れ高いシリーズの多くはこの時代に生まれたものだ。

一方その頃、中国のゲーム業界はどうなっていたのか。

ゲーム文化の鎖国時代を開いた伝道者たち

戦後、中国大陸で文化産業が全体的に復興し始まったのは1970、80年代のことだ。世界中でブームとなったAtari、ファミコンとは無縁であり、正式に発売されることは無かった。ごく一部の裕福層だけが海外のゲーム機を入手することができた時代である。当時の弱い文化産業に対し、国民たちの文化、娯楽製品への需要は日々高まっていたが、コンピュータは価格が高く、大衆には届かなかったのだ。その需要に応え、中国大陸のテレビゲーム文化の一番最初の土壌となったのは、80年代後半のファミコン互換機と海賊版ゲームカートリッジだ。

90年代にはSFC・メガドライブ・NINTENDO64などが発売されたが、またしても中国では無縁のものだった。理由は大きく2つある。1つはクローンするコストであり、もう1つの理由は、購買力の問題だった。ゲーム企業の主戦場は日本、北米などで、それに対して中国の大都会を除く一般家庭は高価なゲーム機を買うような余裕はなく、企業も中国市場に進出するつもりはなかった。

結果、ファミコン互換機の流行は中国で十数年ほど続いた。その中で、ハードの価格は非常に安くなり、海賊版ゲームの値段もどんどん下がっていく一方だった。

とはいえ、90年代には多くのプレイヤーの意識に変化が訪れた。特に、裕福層たちは自発的に海外からメガドライブ・SFCなどのハードウェアを輸入して、ゲーム喫茶などを営む人も出始めた。

そして1993年夏、中国で史上初のゲームマガジン『GAME集中営』が現れた。ゲームに特化した唯一の雑誌として、海外ゲームの攻略、紹介などオリジナルの内容を掲載して人気になった。1994年には雑誌タイトルを『電子遊戯軟件』に変更し、もう一つのゲーム雑誌『家用電脳と遊技機』と共に中国大陸のゲームマスコミ業界の幕が開いた。

海外ではハード・ソフトともに成長する時代だったが、中国にはその産業が存在しなかった。クローン製品から始まった文化的土壌の影響は、いまなお続いている。しかし、当時のプレイヤーたちは自発的に、そして積極的にゲーム文化の伝道に身を投じた。その人々こそが、後の中国ゲーム産業で、非常に重要な役を演じることとなったのだ。

PCとゲーム機の良いとこ取り?「小霸王」の成功

90年代にファミコン互換機で有名になった「小霸王(ショウバーオウ)電子工業有限会社」という企業をぜひ紹介させて頂きたい。小霸王電子工業有限会社は1987年、広州省中山市で設立されて、ファミコン互換機を開発・販売し始めた。

なぜ小霸王は特別なのか。

1991年、小霸王は任天堂ファミコンのプログラミングソフト「ファミリーベーシック」とそのキーボードをベースにして、子供向けの教育ソフトを自社開発し始めた。キーボードそのものが本体になり、正面上部にカートリッジスロットが付いている形だ。性能別に多機種を展開し、タイピング練習・作曲・電卓・文書編集などゲーム以外の用途のソフトを多数開発。しかもゲームパッドは2個付きで、オリジナルや海賊版のファミコンカードリッジにも対応しており、簡易なPCとしてもゲーム機としても使える便利なものだった。

筆者が持っているSB-926型は今でも動作可能。LPTプリンター出力対応の上位モデルで、分厚いF-BASICプログラミングマニュアルも付属。

さらに、小霸王は中国政府の教育部と提携し、中学生や高校生向けの教科書をデータ化して、課題練習、模擬試験などの教育ソフトも多数開発した。政府の支持を得た上に人気俳優ジャッキー・チェンの広告出演により中国で爆発的な人気を博し、1993年には市場占有率の80%を占めて第一位となった。

それから裕興(ユーシン)・歩歩高(ブーブーコウ)など他の中華ブランドもすぐこの方針に倣った。ファミコン互換機やディスクシステムをベースにし、フロッピーディスクを利用してPCと互換性のあるデータが保存できる機種などを続々と発売した。

ファミコン互換機の一種。フロッピードライブ搭載、マウス対応の「裕興多媒体電脳」

家庭用PCの値段はまだ高い時代に、ファミコン互換機に大量のオリジナル要素を組み込んで大成功を得たそのビジネスモデルは、中国のゲームプレイヤーのみならず一般ユーザーの需要も正確に把握した巧みな戦略だった。日本の読者の皆様にとっては、今見ても不思議に感じられる歴史かもしれない。

そして中国国内でもようやく新規タイトルの産声が上がる

80、90年代、中国では正式なゲームハードが発売されず、ファミコン互換機以後のゲームハードに触れたプレイヤーは少数だった。一方で、1994年前後から中国大陸にインターネットサービスが導入されたことで、大都市から順に家庭用PCが普及し始める。この家庭用PCが、中国製ゲームの基盤となっていく。

さて、長らく海外のゲームを遊んできた人々が作った、最初の中国製ゲームはどんなものだったのか。

中国大陸のユーザーたちがまだファミコンに熱中している90年代、台湾ではいち早く、PCゲームを開発する会社が現れた。その中でも、1990年に大宇資訊(タイユーインフォメーション)が開発した中華風RPG『軒轅剣』シリーズや、1991年に智冠科技(チカンテクノロジー)が開発したストラテジーゲーム『三国演義』などの人気は、中国大陸にも波及した。中国大陸ではまだPCユーザーが少なく、台湾のPCゲームも入手困難だった時代だが、中華要素を組み込んだ中国語のゲームは珍しかったため、大いに歓迎されたのだ。

『軒轅剣』初代ゲーム画面

その後中国大陸にも、オリジナルPCゲームを開発する会社が続々と現れた。1994年北京金盤電子(キンバンデンシ)有限会社が開発した『神鹰突撃隊』というフライトシミュレーションゲームは、中国大陸で最初のオリジナルゲームコンテンツだった。1995年、北京目標軟件(Object Software)が開発した競馬ゲーム『Hooves of Thunder』はアメリカで発売され、アメリカゲーム誌『PC Gamer』から82点の好評価を受けた。ただし中国で発売されることはなかったため、知る人ぞ知る存在となっている。同じく1995年に設立した北京前導軟件(ゼンドウソフト)有限会社が『官渡』、『赤壁』など三国史テーマのストラテジーゲームにより有名になった。

金盤電子有限会社と前導軟件有限会社は海外PCゲームの輸入事業などにも取り組み、中国大陸で最初のゲームパブリッシャーとなったと言える。このように、中国大陸・台湾のゲーム会社は短期間で数多くのPCゲームを開発したが、やはり開発経験が不足していたこと、小さい市場に対し大規模開発のリスクが高かったこともあって、大作の数は少なかった。

しかし例外はある。ここで注目して欲しいのは大宇資訊が1995年に発売した新規タイトル『仙剣奇俠伝(センケンキキョウデン)』だ。日本製のターン制RPGから設計思想を吸収した上、恋愛冒険要素と中華文化を代表する「武俠」要素を世界観に取り込み、中国大陸・台湾で大ヒット作品となった。この「武侠」については後述する。

プラットフォームはMS-DOSだったが、日本ではセガサターン版も発売され、力の入った海外展開となった。ただし、当時の『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』などと比べて操作性が悪く、ローカライズがいまいちなどの問題もあって、日本での評価はほどほどにとどまった。

『仙剣奇俠伝』初代ゲーム画面。中国のプレイヤーはみな遊んだことがあるとまでは言えないが、この画面を知らない人は恐らくいないだろう。

中国で大人気、国民的ゲームを生んだ「武侠」の世界観

ここで読者の皆さんに紹介したいのは中国ならではの「武俠」文化だ。世界の文化輸出国の中で、日本では『ガンダム』に『エヴァンゲリオン』、アメリカでは並居るスーパーヒーローたちや『トランスフォーマー』など、人気作品・キャラクターは数多く存在する。それと比較すると中国の文化輸出は弱かったものの、国内的には金庸(キンヨウ)氏・古龍(コリュウ)氏などの小説家による『射鵰英雄傅(シャチョウエイユウデン)』、『絶代双驕(ゼツダイソウキョウ)』などの武侠もの作品が流行し、1960年代からずっと続く人気作となっている。

「武俠」という言葉の意味は、中国の武術に精通して地の果てをさすらい、勧善懲悪する浪人たちのことである。作品の舞台は中国の古代中原地域などであり、悪人たちと戦いながら自由・愛情を求めるというのがお決まりの展開だ。「自由という名の男のロマン」は中国人の国民性の一部として強く根付いていて、現実の縛りから解放される・自由自在な旅をする・後悔の無い人生を求めるなどのテーマは中国で広く受け入れられやすい。もちろんそういった世界観から影響を受けた乙女向け作品も存在しており、『還珠格格(カンシュカクカク)』などは恋愛をテーマにした大人気の浪人系作品だ。

ちなみに、2000年にプレイステーションで発売されたゲーム『射鵰英雄傅』は、中国でかなりの知名度を誇っている。開発元が日本のソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)で中国語にも対応している。海外開発(しかもファーストパーティ独占)の本格中国武俠系ゲームはなかなか珍しいものだ。

金庸氏の小説を脚色した中国武俠テーマARPG『射鵰英雄傅』(2000年)

それでは話を戻そう。初代『仙剣奇俠伝』は中国大陸・台湾で40万本の売り上げを達成し、『軒轅剣』シリーズなどと共に中華RPGの代表作になった。恐らく、当時中国で海外製のRPGがさほど普及していなかったのは、文化と言語上の問題が大きい。そこへ中華要素を多く取り込んだ中国製RPGが現れ、多くのプレイヤーたちを魅了したのである。RPGとしては中庸だが、中華恋愛大冒険活劇要素こそがシリーズの肝である。

ちなみに大宇資訊は2000年に中国大陸で軟星科技(Softstar Technology)を設立し、『仙剣奇俠伝』シリーズの3作目からは軟星科技が開発を担当している。2017年5月から最新作『仙剣奇俠伝7』の開発も始まった。実写ドラマ化や周辺グッズの販売、最近ではテーマパーク建設などの提携展開も手広く手がけている。もはや中国の国民的RPGとなったのではないかと、私は思う。

2015年『仙剣奇俠伝6』宣伝動画

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