ゲームが好きだから教師を辞めてこの仕事を選んだし、今でも楽しいからプログラミングを続けている。現役最年長プログラマー呉 英二氏は、いたって朗らかにそう語った。
30歳からのアセンブラ学習、経営者として続けていく中で生じた悩み、抗癌剤治療。その人生には様々な困難があったはずだが、それを上回る好きなものへの純粋な探究心が呉氏を突き動かして来たのだろう。
自らの代表作『ファーストクイーン』をスマートフォンに移植するなど、今なお新たな取り組みを続けている呉氏のこれまでの人生、そしてこれからの展望についてお話を伺った。
インタビュー: 今田 智子
呉 英二
中学校教諭からゲームプログラマに転身。 30歳で、月間マイコンコンテストにて『ゼノン』がゲーム部門で1位。本格的に制作活動に入る。多人数リアルタイムシミュレーションゴチャキャラシステムを開発。 会社経営10年経って、再び個人開発に戻り、オリジナルの3Dエンジンを搭載した3Dゴチャキャラを発表。ゴルフゲームをOEM提供するなどして現在に至る。
今田
呉さんと同世代で未だにプログラムを書き続けている方って、周りにいますか?
呉
さすがに65歳でコードを叩いている人はいないですね。でも、やっぱり今でも楽しい!……楽しいんですが、メモリがかなり破壊されているのがわかるんです。昨日やったことをかなり忘れちゃってる。
今田
新しい言語やAPIを覚えたりするのは大変ですよね。
呉
そう、だから全部勘!覚えてもすぐに忘れちゃうので、しょうがないんです。今は開発環境が良くて、コードにぶら下がっているメンバを全部表示してくれる。だから勘で「お前だろ!」と言ってつなげてみる。動けばそれでよし、全部そういう風に「とにかくやってみよう!」というノリです。
今田
なるほど、開発環境に助けられている面もあるんですね。とは言え、長年の蓄積も大きいのではないでしょうか。
呉
そうかもしれないですね。例えば以前、他の人の書いたC++のプログラムをFlashに落とし込む仕事をしたんです。その時も、最初の2ヶ月間でとにかくコードを叩いて動くところまで持っていくのは大変でしたが、後はもう慣れです。後半の作業はほとんど元のプログラムにあったバグを直していたようなものですし、言語が変わっても気をつけるところは一緒ですね。
今田
今でもエンジニアとして続けているのは、やっぱり「楽しいから」ですか?
呉
そうそう、責任さえなければ楽しい。慣れてしまえばあとは楽しいからできるんです。例えば人が作ったソースコードを直すときなんか、最初よくわからないんですけど……なぜだろうと考えて寝るでしょう?そうすると、ここが怪しいというのが夢に出てくるんです。これを「虫の知らせ」って言うんですけど。この辺がバグっぽい、虫が言ってるんだから間違いない、と(笑)。それで、朝起きてソースコードを見るとやっぱり怪しいので直したりだとか。そういうのが、楽しい。
今田
ゲーム開発を始めた最初のきっかけって、どんな風だったんでしょうか?
呉
大学生のころ、落語研究会に所属していたんです。その落研の後輩が、『月刊マイコン』の立ち上げメンバーの一人だった。落研をやっている頃からそいつと小話を作ったりしていましたから、息抜きに読める簡単なバカバカしい小話を一席『月刊マイコン』で書いてくれないかということで、月一で読み切りの連載を始めたんです。当時私は理科教師をやっていて、プログラムのことはまだよくわからなかったものですからね。
今田
『月刊マイコン』はゲーム専門誌というわけではなかったんですか?
呉
そうそう、プログラミング全般の専門誌です。ゲーム半分、他のこと半分で、例えば「教育現場ではこんな活用ですよ」とかそういう記事も多く扱っていた。
掲載雑誌が来て、ゲームの記事とかも載っているのを見て「あ、これは面白そう!」と。自分もガキの頃からオタクでゲームセンターに入り浸ったりしていたものですから、なにかできそうだと思って。それで、MZ-80という機械を人から譲ってもらって、プログラムでお話を動かすっていうのを『月刊マイコン』に載せた。そうしたら、それがちょこっと売れてしまって、教師の安月給より良かった。じゃあこっちの方が金になるかなというので、教師を辞めたんです。
今田
周囲はどんな反応でしたか?
呉
それはもう、親には泣かれましたね(笑)。「せっかく公務員になれたのに、何をとち狂ってるんだ!」みたいな。
今田
当時はやっぱり、ゲームに対する風当たりが強かったんですか?
呉
教員をやっていた当時はゲームウォッチが流行っていて、そういうのは良くないんじゃないかという風潮はありました。それこそ、「コンピューターを使って教育ができるか!」と言われたりしましたからねぇ。いやいやそうじゃないでしょと、数年経ったらコンピュータはなくてはならないものになると思っていました。
今田
そういう雰囲気の中でも、やっぱりゲームを作る仕事をするんだという思い切りができたのは、なぜなんでしょうか?
呉
辞めたのは勢いもあるんですけど、一番は向いているという思い込みですかね。機械相手だと、自分の間違いがそのまま出て来るし、そのかわり一生懸命やったこともそのまま画面に出て来る。やっぱり自分の好きなことはゲームだな、というところですね。
今田
教師を辞めたというのが、今から何年前ですか?
呉
私が30歳の頃ですから、35年前ですね。そのまますんなりゲームの仕事ができるかなと思っていたんですが、そんなに甘くなかったんです。最初に覚えたBasicは1ドットずつ描画していくので遅くて、それじゃあ動きのあるゲームにならない。これからはアセンブラを覚える必要がある、と。
当時は30歳でプログラマ引退と言われていたんですが、家族もいるし、もう勉強せざるを得ない。それで2ヶ月間、必死になってコードを覚えました。ソースコードはレポート用紙に書いて、16進数のコードを全部手入力していくんです。そのコードを見ながら、どのくらいジャンプしたらいいのかを数えて、またソースを作って、打ち込んでいって……そうして、2ヶ月したら作品が作れるようになった。あ、これだったらなんとか食べていけるかなと思いました。
そうこうしているうちに『月刊マイコン』でコンテストがあるというので、それにレポート用紙3冊を潰して作ったスクロールゲームを応募したんです。ある程度の規模のあるゲームをつくれた人が他にいなかったんですが、優勝ではなく準優勝でした。癒着を疑われちゃいけないので(笑)。
今田
なるほど、その時も『月刊マイコン』でライターをされていたんですね。
呉
そうです。優勝したのはゲームではない一般のプログラムでした。準優勝の賞品が選べたんですが、海外旅行とX1パソコンとどっちがいいか?というので、「あ〜もう当然X1の方がいい!」と。X1を手に入れてから本格的に、ゲームの仕事がお金になるようになりました。ビーピーエス社という、日本でテトリスの版権を持っていた会社があったんですが、そこで『ザ・ブラックオニキス』というRPGのBasicソースをX1用のアセンブラになおしたのが最初の出稼ぎ仕事です。
でも、それだけじゃ面白くない。自分のゲームを作りたくて業界にいるので。だからオリジナルのゲームを半年くらいかけて作って、絵も自分で描いて、ビーピーエスに持ち込んで売ってもらったんです。色数の少ない疑似3Dゲームだったんですが、アセンブラだから描画が早くてそこそこ売れた。それで自分の会社を立ち上げることにしました。
今田
他のゲーム会社に就職せず、自分で会社を立ち上げた理由ってありますか?
呉
オリジナルのゲームを出してもらった後にビーピーエスの担当者と話して「自分でゲームを作れるなら自分で売った方がいい、人に任せるのは良くない」と言ってもらえたからですね。やってみてダメだったら、その時は普通にプログラマとして就職することもできるだろうとも思っていました。業界が若かったから、なんとかなるだろうと。
今田
当時のゲーム業界って、どんな人たちが集まっていたんでしょうか?野心的な人が多かったのか、それとも技術オタクな人が多かったのか……。
呉
まさしくその二種類です。PC業界に多かったのは技術者上がりでそのまま社長になったような形ですね。アーケードはお金がかかるので技術者上がりのところは少なかったように思いますが、PC業界はお金がなかった分、技術交流をしたりしていて仲が良かったです。同世代は大体引退したり業界を離れたりしちゃいましたが、日本ファルコムの会長さんとは今も交流があります。
会社の立ち上げ時に手伝ってくれたのは、私が教師の頃最初に家庭訪問した生徒なんです。その子がグラフィックを描いてくれて、同年代の子たち何人か仲間が遊びに来て手伝ってくれました。その中には例えば日本のガンホーを立ち上げた堀さんが居たりしまして。今50代くらいで、ゲーム業界をリードしている世代ですよね。そういうことがあったから、教師はやっていてよかった。辞めて良かったし、やっていて良かった。そう思います。
今田
なるほど、今も昔も人との関わりでお仕事が繋がっているんですね。呉さんの人徳というか、そういったものを感じます。
呉
いやいや……でもそうですね、今までの自分の人生は一応全部ゲーム作りに入っているので。やっぱり、ご縁です。
呉
会社を起こしてから、社員がいたのは10年くらいです。最初は楽しかったんですが、続けていくなかで誰のために仕事をしているのかがよくわからなくなってしまって。ただシリーズをつなげて行っても、やらなきゃいけないからやっているという感じで、自分のために仕事やっていないよね、と。それじゃいいものを作れない。
それで少しずつ人を減らして、今はまた1人に戻ってやっています。外注のスタッフに頼んで、実際には5~6名で動いていることが多いんですけどね。事務所も必要がなくなって、今は田舎に引っ込んじゃったんですけど……まあ本当に楽ですね。朝4時から仕事が始められるので、今が一番楽しい(笑)
今田
2005年以降、今回のスマホ版ファーストクイーンリリースまでしばらく呉ソフトとしての活動はなかったようですが、その間はどのように?
呉
外部のお仕事をやりつつ、ただひたすら春の訪れを待っていました(笑)。実は2000年に癌になっちゃったんです。抗癌剤治療を1年やったんですが、これがきつかった。頭が回らなくなっちゃって、やばいなと。
ファーストクイーンを使っていろいろ勉強は続けていたんですけどね。そのおかげで色々仕事をいただくことができました。objective-c、java、Flashなんかも試してみたので、ファーストクイーンのソースは全部あるんです。
ファーストクイーンはうちの看板なので、出せばお客さんにすぐ気づいてもらえると思って、スマホの小さい画面にはそぐわないことがわかっていながらあえて出したわけです。Unityでの開発と、iOSとAndroidの市場への出し方がわかった。だから勉強としては成功でした。
今田
それではこれから、呉ソフトとして取り組んでいこうということは?
呉
次は、ファーストクイーンの操作システムにこだわらず、スマートフォンに合うようにある程度自動化したゴチャキャラを出したいな!と。命のあらん限り、ライフワークとしてコツコツやっていこうと思っています。
今田
楽しみにしています!最近一人でゲームを作る人が増えているんですが、そういう人たちの先駆けなのかもしれないですね。
呉
それこそ今はUnityがあれば、とにかく作るところまでは早くできますからね。「こういうものを作りたいんだ」というのがある人には強力なツールです。
今田
やはり「こういうものを作りたい」ということをしっかり持つのが、長くやっていく秘訣なんでしょうか?
呉
ものづくりですから、何を作りたいかは発露として大事です。私も大学でFortranの授業を受けた時は、なにも内容を覚えてなかったんです。そのあとにBasicを覚えたときやっと「ああそうか、こういうことだったのか」とわかりました。ドットが一つ移動する、キーを押すとそっちに動くというのが本当に嬉しかった。もしかしたらこれでピンポンができるかもしれないし、ブロック崩しができるかもしれないという目的意識が生まれたわけです。これから学校でプログラミングの授業が始まるみたいだけれども、動機付けをちゃんとして、目的意識を持ってやってもらえたらいいなと思います。
今田 智子
京都大学文学部哲学科卒業後、東京で2年間ほどゲームプランナーとして勤務。その後、ブライダル映像制作会社での勤務をへて独立。ゲームとカメラと音楽が好きな、いろいろやるフリーランスのひとです。