子どもが見ても面白いと思えるような明快さと、機知に富んだ視点を提供するメディアアーティスト、谷口 暁彦。コンセプト・メイキングからデヴァイスやソフトウェアのプログラムまでを自ら手がけ、メディア・アート、ネット・アート、ライヴ・パフォーマンス、映像、彫刻作品など、さまざまな形態で作品を発表。その作品は国際的に知られ、国外のアーティストからもラブコールを受けている。そんな彼がここ2年、Unityをメインツールとして作品を制作・発表している。果たしてメディアアーティストはUnityをどう作品に取り入れているのだろうか?
インタビュー: 齋藤 あきこ
谷口 暁彦
1983年生まれ。多摩美術大学大学院修了。自作のデヴァイスやソフトウェアを用い、メディア・アート、ネット・アート、ライヴ・パフォーマンス、映像、彫刻作品など、さまざまな形態で作品を発表する。主な展覧会に「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」(ICC、2012)、個展に「スキンケア」(SOBO、東京、2015)、「滲み出る板」(GALLERY MIDORI.SO、東京、2015)など。
斎藤
Unityを使い始めたのはいつからですか?
谷口
2015年の冬からですね。始めたきっかけは、「BRDG」というクラブイベントでKeijiro TakahashiさんのようなUnityでVJをする方が出てきたのを見たところからですね。「どうやらUnityはチェックボックスをオンにするだけで重力が設定できるらしい」と聞いて、これは使わない手はないと。それまでProcessingやopenFrameworksで3次元空間での重力を再現するために、かなり苦労をしていました。
斎藤
最初はどういった作品を作ったのでしょうか。
谷口
最初は小さな習作をいくつか作っていました。例えば、自分の手元をWEBカメラで撮影して、画面を操作する手元の様子を目の前に配置してみるような習作です。いわゆる普通のテラインオブジェクトの使い方を試しているうちに、WEBカメラで撮った映像を3次元空間に配置できることがわかり、これは変なことが色々とできそうだなと。
斎藤
ここ2年くらい、Unityを主なツールとして作品制作をされていますね。
谷口
普段からアセットストアで面白そうなアセットを探していて、いろんなテストをしています。やっぱり作品としてゲームエンジンやアセットなどの素材を使う時には、人があまり使っていないような使い方をしたいですね。正しく使わないことがセオリーというか。普通にゲームを作るのではなく、重箱の隅を突くように「こんなこともできるんだ」って、機能の棚卸しをして、自分にフィットした方法を探していくイメージですね。
斎藤
テクノロジーやツールを疑い批評するという、という意味ではすごくメディアアートっぽい考え方ですよね。
谷口
例えば、ナムジュン・パイクがテレビのブラウン管に磁石を近づけることで映像を歪ませ、それを作品に用いたように、本来の用途ではない方法、故障するかもしれない、やってはいけない事をやってみることが大事だと思います。そうしてメディアの裏側にある姿や、新しい可能性を拓いていくことが、メディアアートのあり方のひとつの姿勢だと思うんです。例えば、DJのスクラッチも、ターンテーブルの誤用で、音楽ではない、ノイズだったわけですよね。現状、ゲームエンジンであるUnityはゲームを作るものだと思われていて、Unityでアート作品を作ることはやや実験的なことだとみなされているかもしれません。でもさらに今後、「Unityでアート作品を作るなんて普通でしょ」と思われるようになった時に、その中でどうナラティブを展開していくか。最近はそういうあり方に興味を持っています。
斎藤
具体的に、どういった作品を想定されているんでしょうか?
谷口
Unityを使ってエッセイを書いたり、映像作品を作ったり、ごく一般的なメディアとして、表現したいことをごく普通に表現できるんじゃないでしょうか。絵画や小説のように、ごく当たり前のメディアのフォーマットになるということです。最初の実験的な段階を超えて普通になってくると、その中で表現が醸造されていくような段階があると思います。
斎藤
いまでも「UnityってVJもできちゃうんですか」っていう意見を頂くこともあって。意外と、自分が専門的にやっている機能以外は全く知らなかったりするんですよね。
谷口
Unityは意外となんでも使えるということが面白いなと思いますね。以前、ブラウザを内部に組み込めるアセットを使って『The Big Browser 3D』という作品を作ったことがあります。この入れ子のブラウザ、ちゃんと動いて、マウスカーソルでクリックして文字入力もできるんです。いろいろ試行錯誤している間に、手を動かして見つけることが多いです。
斎藤
ICCで展示された『私のようなもの/見ることについて』もUnityで作られていますね。
谷口
Unityで制作したものが、初めてインスタレーションという展示形式になったのがこの作品です。2つのスクリーンがあって、片方はあらかじめ僕の移動した軌跡が記録されています。もう1つの画面では、鑑賞者がコントローラーを触って空間の中を実際に歩き回ってテキストを読んでいくという、いわゆるマルチプレイゲームのような構造です。元々は同名の実際に僕がアヴァターを操作しながら、テキストを朗読するパフォーマンス作品だったのですが、このインスタレーション版では、3D空間の中にテキストを配置し、鑑賞者が自由に読めるようにしました。
斎藤
この作品はかなりオープンワールドのゲームに近い構造でしたね。
谷口
2画面あると、操作し始める時、どちらの画面が自分の視点なのかわからなくなってしまう。こっちが私だったのにあっちにも私がいる、という自分が分裂したような状態になるんです。そもそも操作しているアバター自体が僕のアヴァターで、どこに「私」があるのか、という事が起きる。そこが全体のコンセプトとして通底している部分です。
斎藤
ASIAN ART AWARD 2017に出品された作品『何も起きない』もUnityで作られたインスタレーションで、日常的な風景が静かにモニタ上で繰り広げられるという作品でしたね。特別賞を受賞されました。
谷口
この作品には5つの場面で構成されています。そのうちの1つ、リビングの場面にはテレビがあるんですが、実際にその時に放送されているテレビの映像がリアルタイムに映るようになっているんですよ。
斎藤
そんなメタ構造になっていたんですね。
谷口
映像の中では24時間の流れがあって、太陽や天候の動きをシミュレーションするアセットを使っています。この作品は単なる映像作品ではなくて、リアルタイムにシミュレーションされた環境を一部切り取って見せているんです。ハケとかバナナとかの日用品で出来ている登場人物についても「何時何分にソファに座って席を立つ」と決めているのではなく、いろいろな行動パターンを持っています。それぞれのキャラクターが自律的にルートやパターンを決めて毎回違う行動をしているんです。
斎藤
登場人物を日用品の寄せ集めにしたのはどうしてですか?
谷口
この作品を見たあと、家に帰ってホチキスを見た時に、少しでも作品に出てきたキャラクターのことを思い出して欲しかった。画面の中で起きていることをどうにかして現実の世界につなげたいんですね。作品の中でテレビが流れるのも、作品がフィクションとして閉じたしまうのではなく、そこに穴を開けて現実と繋がっているようにしたかったからなんです。
斎藤
この作品は、かなりゲームの作り方に近づいているような感じがしますね。
谷口
登場人物もUnityのシンプルなAIの機能で動作し、天候もシミュレーションされていて常に変化しています。街も、見えない部分で3ブロック分ぐらいの広さを作ってあります。それらは全てゲームを作るために使われている技術ですが、あくまでもゲームとしてプレイするのではなく、鑑賞者は「見ること」だけしかできない。そもそも、この作品を作ったきっかけは、海外のオープンワールドのゲームで感じた違和感というかリアリティから始まってるんです。
斎藤
具体的にどういったゲームですか?
谷口
『Fallout 4』ですね。衝撃でした。世界がものすごく細かくできていて、ウロウロ歩いて、山に登ったときにすごい綺麗な空が見えたりすると、いいなって思って。敵を倒したりするようなイベントや目的が何にもない、たんに風景を眺めている時の方が、実はすごく豊かな可能性が広がっている感じがあったんですよ。
斎藤
イベントがない時のほうが体験として豊かだったと。
谷口
以前、サウンド&ビジュアルのライブパフォーマンスをする時に、バーチャルなライブ会場そのものの空間からからスタートするというメタ的な作品を制作したことがあるんです。でも本当は、自分が朝起きて部屋から出るところから作りたかったんですよ。電車に乗って、ライブ会場の階段を降りて、ドアを開けてライブハウスに入って、リハをやって「いつ本番始まるのかな〜」って待つところまで作品にしたかったんです。それが肥大化すると、パフォーマンスするために町から作らないといけないじゃないですか。
斎藤
その肥大化する欲望を叶える手段がゲームのシミュレーションだったということですね。
谷口
さらにこの『何も起きない』という作品からスピンオフ的に写真集を作り、「TRANS BOOKS」という本のイベントで発表しました。定点カメラからは見えないアングルを写真集として見てもらおうと思って。写真集もUnityで作っています。
斎藤
写真集をUnityで作るというのは?
谷口
登場人物が写真集をめくっているような動きを再現したものを、一種の電子書籍として発表しました。制作では、ページをめくる挙動のパラメータの調整に苦労しました。パラメーターを変えるとそれっぽい動きになるんですけど、今度そうするとメッシュが貫通して次のページが見えちゃうんですね。
斎藤
写真集の本自体もバーチャル世界で見なくてはならないというのは面白い試みですね。谷口さんはミュージックビデオも手がけられていて、Cumhur Jayの「On & On」もUnity製ですね。すり抜けやめり込みが表現として使われていることが魅力的でした。
谷口
背景はアセットストアで購入したものや、3Dスキャンしたものを使っています。3Dのいいところは、スケール感とか当たり判定みたいなものをコントロール出来ること。すり抜けてもいいし、スケールも自由だし。
斎藤
3Dスキャンはどうされてるんですか?
谷口
自分の姿は、自宅でスキャンしたものです。首から下の全身は「ストラクチャー」というiPadにつけるタイプの3Dスキャナーで、首から上は「フォトスキャン」という色々な角度から写真を撮ってそれを合成するタイプのソフトを使っています。手は細かく取れないので、既存の3Dモデルを繋ぎ合わせて。だからフランケンシュタインみたいなもので、よく見ると首のつなぎ目に穴が空いちゃってるんです。
斎藤
そういう力の入れ具合がいいですよね。
谷口
見た目が程よく雑な方が、コンセプトが隠れないと思うんです。あまりに綺麗に仕上がってしまうと、見ていて違和感とか抵抗がない。そうすると、そこに意識を向けたり、考える余地が生まれない。雑なところって、どうしても目がいくじゃないですか。そこに、コンセプトが関係してくることがある。必ずしもわざと雑に作っているわけでもないんですが(笑)。
斎藤
アセットストアにあるものからインスピレーションを受けることもあるとおっしゃっていましたが、それは作りたいものがまずあってそれに必要なものを追加していくという考え方とは真逆ですよね。
谷口
僕が作品を作る時には、その作品が何によって作られているかをすごく意識するんです。コンピュータなのかiPadなのか、作品に用いるメディアの質感や抵抗感をよく意識しています。だからレンダリングやモーションの感じから滲み出るUnityぽい質感に抵抗はないんです。
斎藤
作品のコンセプトなどの組み立て方によってもアプローチがまったく違いそうですね。
谷口
僕とは逆に、それがなんの素材を使ってるかわからないような、独特の質感で成立する作品を作りたいと思っている人にとっては、アセットストアを活用した作品制作は合わないかもしれません。例えば勅使河原さん(Qubibi)も最近は一部の作品でUnityを使って制作されているようなんですが、全然Unityで作ってるように見えない。以前はAdobe Flashを使っていたと思うんですが、そのFlashを使った作品もFlashで作っているようには見えなかったんですよね。そのくらい独自の質感がある。作品の傾向によって、何で作っているのかが明らかになった方が良いのか、そうでなはない方がいいのか、というのは人それぞれ違いがあると思います。
斎藤
そこに作家性や作品性が出てきそうです。
谷口
演劇や映画はかつて「総合芸術」と呼ばれていました。つまり、小説みたいな物語とビジュアル、舞台装置や音楽が集まって出来るものだから。それが今、Unityのようなゲームエンジンで作品を作ることもある種の「総合芸術」と呼べるんじゃないかと思っているんです。物語も視覚的なものも、プログラ固有なコードの美学(実行される文学としてのコード)もあって、ジェネラティブな表現もできる。既存の総合芸術にコンピュータ特有の計算美学が入ってくることで、総合芸術としてのゲームを見直し、そこに新しい表現の可能性を見出して行くことができるんじゃないかと思います。
齋藤 あきこ
ライター・編集者として雑誌やWeb媒体にてテクノロジー・アートに関する記事を多数寄稿するほか、企業PR、コーディネーター、翻訳など幅広い活動を行う。2017年よりMade with Unityに編集者/ライターとして参加。編著書に「Beyond Interaction[改訂第2版]」ほか。