谷口暁彦が語るゲームとアート「シミュレーションされる世界のリアリティ」

谷口暁彦が語るゲームとアート
「シミュレーションされる世界のリアリティ」

子どもが見ても面白いと思えるような明快さと、機知に富んだ視点を提供するメディアアーティスト、谷口 暁彦。コンセプト・メイキングからデヴァイスやソフトウェアのプログラムまでを自ら手がけ、メディア・アート、ネット・アート、ライヴ・パフォーマンス、映像、彫刻作品など、さまざまな形態で作品を発表。その作品は国際的に知られ、国外のアーティストからもラブコールを受けている。そんな彼にゲームとアートについて存分に語っていただいた。

バーチャルの鹿を24時間中継する

いま、ご自身のホームページで「ヴィデオゲームアートのためのUnity講座」を公開されていますが、こちらについて教えてください。

谷口

これは2016 年の夏に多摩美術大学で特別授業を行った時の資料です。その後、武蔵野美術大学でも同様の授業を行いました。基本的にはUnityの使い方を覚えてもらおうというものですが、ここ数年で多くなったビデオゲームを使ったアート作品の動向を知ってもらいたいという思いもあり、そうした歴代のゲームアート作品の紹介に力を入れました。

ビデオゲームを使ったアート作品にはどういうものがあるんでしょうか?

谷口

様々な形態の作品があって一概には言えないのですが、最近僕が衝撃を受けたものでいうと、Brent Watanabeというアーティストの作品『San Andreas Streaming Deer Cam』です。『Grand Theft Auto V』に登場するモブキャラクターの鹿をずっと24時間、ライブ中継でネット配信していた作品です。

本当に、ただ鹿を眺めるだけなんですね…。

谷口

どこかの国立公園に設置された、野生動物の様子を眺めるライブカメラのような見た目のサイトが用意されていて、そこでこの野生(?)の鹿を閲覧することが出来るようになっていました。この鹿はAIで動いているんですが、それが自由奔放に世界の中を歩き回る様子を見ていると、現実から切り離されたバーチャルな世界の中に独自の生態系や営みがあるんだということが強く感じられて、そこがヤバいなあと。また、Matteo Bittantiという研究者であり、アーティストでもある人物がいるんですが、彼がやっているアーティストコレクティブ「COLL.EO」の『BORING POSTCARDS FROM ITALY』という作品も面白いです。『Forza Horizon 2』というレーシングゲームの中に出てくる様々な風景をスクリーンショットで撮影してポストカードにしてしまったんです。Martin Parrという写真家の『BORING POSTCARDS』という、なにげない風景のつまらない写真をポストカードにする作品へのオマージュにもなっています。

本当に、単なる道端の風景が写っているポストカードですね。

谷口

退屈だし、単純にゲーム画面のスクリーンショットなんですよね。でも、それがポストカードや写真集という形態で提示されたときにガラッと意味が変わってくるんです。ゲームをプレイしている時には隠れてしまうような、淡々とした日常の風景がゲームの世界の中にもあるんだっていう実感が出てくる。でもその一方で、これはやはり実在しないゲームの中の世界なんだっていう、2つのリアリティの間で認識が揺れ動くような感じがいいなと思います。

ゲームアートと一言でいっても、自分でゲームを作るアーティストだけでなく、既存のゲームを使った作品というのもあるんですね。

谷口

そうですね。もともとは既存のゲームを改造するなどして制作された作品が多かったと思います。「マシニマ」と呼ばれるFPSゲームなどの映像を録画して制作された映像作品の流行も背景にあったと思います。ただ、Unityを始めとするゲーム開発環境や、VRが普及してきて、既存のゲームではなくオリジナルで制作された作品も増えてきていますね。このあたりは、最近のインディーゲームの盛り上がりとも連動している感じがします。

ご自身の制作についても、そうしたゲームアート作品やゲームなどからの影響があったのでしょうか。

谷口

Unityを使い始める以前の作品には、ゲームからの影響はそこまでなかったですね。ただ、Unityを使用するようになって、徐々に過去に体験してきたゲームからのリファレンスが吹き出して、影響されている感じがあります。また、Unityを使うようになってからは制作の参考のために、近年の様々なゲームをプレイしました。

例えばどんなゲームですか。

谷口

基本的にオープンワールドのゲームを中心にやっていますね。Unityを触り始めた2年くらい前だと『Fallout』、『Grand Theft Auto』、『龍が如く』などのシリーズ。特に『龍が如く』の6では、今までの神室町(歌舞伎町がモデル)の他に、尾道仁涯町(広島の尾道がモデル)がメインの舞台になっているんですね。そうするとすごく見慣れた田舎の風景が3Dで描かれていて、細部の表現も丁寧で、いま自分はゲームの中にいるのかもしれないという錯覚を感じました。

歌舞伎町よりそういったなんでもない風景の方が没入感があるんですね。

谷口

歌舞伎町って、街自体が現実離れしていてテーマパークっぽいところがありますよね。だけど広島の尾道の雑多でちょっとさびれた街の風景って、自分の生活と地続きになってる感じがあって、これはやばいなって。一つ一つの風景の細部に、自分自身の記憶が染みついてしまっているような感覚ですね。多分そのリアリティが自分の作品に繋がっていたりします。そういった気になるゲーム内の風景を撮影して『散歩』というタイトルのtumblrでコレクションしていたりしました。

いま、どのハードでもキャプチャできるのが当たり前になっていますから、メタなことを楽しみやすい環境にあるんですね。

谷口

『散歩』で色々撮影して気づいたんですが、例えば『龍が如く』ではモブキャラの顔はそこまで種類が多くないため、たまたま同じモブキャラが同時に道端を歩いている瞬間に出くわすんですね。そういった瞬間を狙って撮影していました。また、『龍が如く』で特に好きなのは、観光地などでモブキャラがスマートフォンを持っていて、写真を撮っている場面ですね。その様子を何度か撮影しながら、あのモブキャラたちはいったい何を見ていて、その写真には何が写っているんだろうかと考えていました。

シミュレーションされる世界に興味がある

昔からゲームは好きだったんですか?

谷口

学生のころから、人並み程度にはゲームをやっていたと思います。特にLOVEdeLICという会社が制作した、『moon』や『UFO -A day in the life-』などが強く印象に残っていますね。少し変なゲームに惹かれていたような気がします。
例えば音楽館というメーカーが制作していた『Train Simulator』という鉄道の運転を体験できるゲームでは、実在する車両の先頭にカメラを設置し、そこから撮影した実写映像を使ったゲームだったんです。プレイヤーが列車の速度を上げる操作をすると、映像の再生速度を上げることで速度を表現していたんです。その身も蓋もない作り方に驚いたのを覚えています。確かに、当時の技術ならば3Dでリアルタイムに動かすよりも、あらかじめ撮影した映像を使った方がリアルな表現になるんですよね。鉄道はカーレースとも違って、常に同じ線路の上しか通らないので撮影した映像で成立してしまうんですね。

電車愛があふれる、アイデア勝ちのゲームですね。

谷口

そうですね、でも『Train Simulator』でもっとも衝撃を受けたのは、むしろそのアイデアの裏側の、ほころびの部分でした。実写映像を使うアイデアは一見画期的な仕組みに思えるんですが、プレイヤーが駅に停車するために車両の速度を落としていくとどんどん映像のフレームレートも落ちていって、最後は時が止まったかのように映像が静止してしまうんです。駅のホームを歩いている人や、線路の隣の道路を走る自動車が写っていたりすると、それも運転している電車に合わせて全て静止してしまうんです。電車を走行しているときはまさに鉄道を運転しているかのように没入できるんですが、停止させた瞬間に、単にビデオの再生速度を調整するゲームだったということに気づかされるんですね。

他にも、『リベログランデ』というナムコのサッカーゲームにはすごく興奮しました。1997年に初代のプレステで出たゲームなんですけど、一人称のサッカーゲームで、1つの試合、90分間に渡って1人の選手しか動かせないんです(ゲーム内の時計で90分、実時間では10分ほど)。通常のサッカーゲームって見下ろし型で、ボールに近い選手に操作が切り替わって、常にボールに関わる場面でプレイすることになるじゃないですか。だけどこれは90分間ずっと1人の選手を動かすんです。

ボールを持ってない時は何をすればいいんですか…?!

谷口

守備に回ったり、 「パスをくれ」など指示を出すことはできたりします。2作目の『リベログランデ2』ではゴールキーパーもできるようになったんです。90分間ずっとゴールキーパー。遠くの方で試合が展開しているのをずっとゴール前で見てるんですね。これは画期的だなと思ったんですけど、そもそも現実の世界で選手としてサッカーをするってこういうことなんですよね(笑)。逆に、この『リベログランデ』をプレイした後、いわゆる一般的な見下ろし型のサッカーゲームの方がかえって奇妙に見えてきたんです。ボールの近くの選手へと常に自動で操作が切り替わっていて、つまり幽体離脱しているわけですよね。ボールが離れるとプレイヤーの魂が抜けて、すぐさまそこにAIが入ってきて、何事もなかったように選手を動かし続ける。「この選手たちの人格や、プレイヤーの主体ってなんなんだろう?」って考えてしまうじゃないですか。そういった、ゲームの中のフィクションの自明な部分が崩れ去っていくような瞬間から、インスピレーションを受けることが多かったと思います。

インスピレーションの受け方が全然違いますね。

谷口

ゲームのインターフェースってどこかで嘘をつかなくちゃいけないんですよね。サッカーゲームであれば、1人のユーザーが1つのコントローラーという制限の中で、11人を動かそうとするわけで。そうしたゲーム特有の制限や齟齬の中でフィクションとしてリアルな世界を描こうとすると、どこかでリアリティが脱臼する。そこにすごく考えさせられるんです。

今の話にも繋がると思いますが、最近は海外の妙なシミュレーター系のゲームに注目していました。例えば『Rock Simulator』というゲームは、石になれるんです。石だから動けないんですよ。ただ眺めるだけという(笑)。ある種のリアリティを求めると、まともなゲーム性がどんどん失われていくというようなことがあると思います。

なるほど、リアルを追求するとゲーム性が失われる。

谷口

『Rock Simulator』は、半ばジョークみたいなゲームだったわけですが、これが登場する少し前の2013年〜2014年には『Surgeon Simulator』(外科医シミュレータ)『Goat Simulator』(ヤギシミュレータ)などの話題になったシミュレーターゲームが登場し、他にも様々な珍奇なシミュレーターが作られ、一種のブームになっていました。これらは一般的なゲーム性を無視して、ゲーム的にチューニングされていない、雑な物理演算で起きる奇妙な世界を楽しむものだったんですね。でもそれすらも超越して、ただ「石」になるだけのところまで至るという。

こういう風なシミュレーター系ゲームで、ジョークではなく、ちゃんとファンがいてシリーズが続いているゲームとして『Euro Truck Simulator』というタイトルがあるんですが、仕事を請け負って荷物をトラックで現地まで安全に運ぶという内容なんです。敵が出てきたり妨害などのイベントもなく、普通にちゃんと法定速度を守って、しっかりと安全に運転していくだけなんですよ。トラックの運転手として普通に仕事をすることと変わらなくなってしまったんですね。先ほど触れた『Train Simulator』を制作していた「音楽館」もその後ゲームの開発をやめ、鉄道会社の研修などで使用するための業務用運転シミュレーターの制作へとシフトしていったことも示唆的ですね。そういうリアルさを追求したゲームが、どこかゲームというタガが外れて、妙な虚無感のある一種のリアリズム、自然主義みたいなものへ繋がっているところが興味深いですね。
最近、アニメーション作家でもあるDavid O’Reillyが『Everything』という、世界のさまざまなものに”なる”ゲームをリリースして話題になっていましたが、その前に『Mountain』という山を眺めるだけのゲームもリリースしています。『Moutain』はいわば『Rock Simulator』の山版という感じで、山がキャラクター的に生成され、その山の天気が変わったりする様子を眺めるだけなんですよね。なので、それらのゲームもこういった独特な質感のシミュレーター系ゲームの系譜として捉えることもできるんじゃないかなと思っています。

どうしてこうしたシミュレーターに惹かれるんでしょうか?

谷口

ゲーム世界が独自に存在していることが強く感じられるからかもしれません。ゲームとしてプレイヤーを楽しませようという姿勢以前に、ある世界をそこに再現することで世界を記述、表現しようとしている感じというか。このあたりはオープンワールドのゲームにも同じ事を感じています。例えば、スーパーマリオブラザーズのようなゲームでは、あくまでも操作しているキャラクターが世界の中心として描かれています。プレイヤーがあるマップをクリアするとそのマップが終了して、次のマップが始まりますよね。でも、前のマップの世界がその後どうなったかは知るよしもない。また、他のキャラクターは自由意志を持って動いていなくて、常にプレイヤーだけが世界に関与することができるようになっています。
でも、それがオープンワールドやオンラインゲームで劇的に変わったんですね。ユーザーのために世界があるのではなく、世界が先行してあって、みんな主人公として世界に参画している。自分の見ていない場所でも他のプレイヤーやAIの生活があって、彼らは夜になるとベッドで寝たりする。現実と地続きなリアリティがずっとそこにあるっていう感じにすごく衝撃を受けました。その影響は自分の作品『私のようなもの/見ることについて』にもありました。

彫刻作品でレーシングゲーム?!

これからはどのような展開を考えていらっしゃいますか?

谷口

勤めている多摩美術大学で、最近自動車の部品メーカーとの産学共同のプロジェクトを行ったんですが、そこで自動車の挙動をUnityでシミュレーションするアプリケーションを作りました。で、このプロジェクトで得た車のシミュレーションの方法を活用して作品を作りたいなと思っています。どういうものかと言うと、歴史的に有名な彫刻作品や知人のアーティストの彫刻作品を3Dデータで集めて、それにタイヤを付けて走らせてタイムを競うレースゲームです。美術作品を評価するのに、美術の文脈じゃないところで評価してみたいんですね。1番硬い作品を作った人が偉いとか、作品を放り投げて1番遠くまで飛んだ人が偉いとか。

斜め上すぎてすごいですね。これから彫刻を作る人は風の抵抗とか考えなければならないのでは。

谷口

ある程度完成したら、3Dモデリングができるアーティストを集めて作品を作ってもらって、タイムアタックをするイベントなんかも開けたらなと思っています。

もはやこうなってくると、インディーゲームとアート作品の区別がよくわからなくなるんですけど、決定的な違いはないんですか?

谷口

決定的な違いはないと思いますね。例えば、かつてネットアート作品を作っていた Auriea Harvey と Michaël Samyn というアーティストが、『Tale of Tales』というスタジオを設立して様々なゲームをリリースしているんですが、それらはどれもインディーゲームとアート作品のどちらでもあるような作品です。また、先日ASAKUSAというアートスペースで行われていた『3Drifts』というゲームアートの展覧会に『Dear Esther』という作品が展示されていました。これはゲームというよりは独白で展開される、インタラクティブな映像作品といえる作品です。この作品についてインターネット上で調べるとゲームのポータルサイトで書かれたレビューが多く出てくるんですね。

本当に自由なものなんですね。

谷口

こういう感じって昔のFlashと似てますよね。いろいろな人がインタラクティブな映像作品を作ってネットにアップしていく状況ができて、クリアとかの概念もなかったり。

アートとゲーム、2つの視点を持つことで豊かな作品が生まれそうですね。

谷口

昔大学でメディアアートを学んでいたとき、ある種のインタラクティブな作品よりもゲームのほうがすごく豊かな表現が行われているように見え、「これでいいのだろうか」と違和感を感じたことがありました。今Unityのようなゲーム開発のエンジンが手軽に使えるようになって、自分の当時感じた違和感にまつわるやりたかったことの一部がようやく出来るようになってきたと感じています。


谷口さんご本人は作品世界そのままの雰囲気で、アーティストの柔軟な発想にひたすら驚かされるインタビューであった。谷口さんの作品は公式サイトにて。

齋藤 あきこ - 2018年2月20日